昭和51年08月05日 朝の御理解



 御理解 第78節

 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかなうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 身代と人間と達者が三代揃うためには、どうでも神のおかげを知り、互い違いにならん様にいよいよ神の大恩を知り、無事達者で子孫も続き身代も出来るおかげを、しかも代勝りにおかげを受けていかねばなりません。ですからここのところが一番分からなければならない、大切なところだと思うですね。神のおかげを知らぬから互い違いになって来る。信心して神の大恩を知ればです、無事達者で子孫も続き身代もでけ一年勝りのおかげが受けられると仰るのですから。
 一番初めに仰っとられる三代続いたら、人間と身代と達者が三代続いたら、だからここが分かれば三代も四代も、子々孫々続くということが分かります。だからどうでも神のおかげを知らなければならない。天地の大恩を徹底して、分からなければならんという事が分かりますね。皆さんが分かろうとしておるところは、何処に焦点を置いてあるだろうか。祈願祠に「天地に満るみ恵を」というところがございますよね、私は今日はそこんところを頂く時に、「史上に満る氏子の歓喜」ということを頂いた。
 史上に満るね氏子の歓喜。歓喜とは喜び、天地のみ恵がお恵みがね、天地にあまねく満ち溢れておるのだということが分かるということ。天地というと大変ですからならこの地球上だけにでもです、そういう天地の親神様のみ恵が、満ち溢れておるのだということが、世界中の氏子に分からせて頂いたら、地球上にそのみ恵みを受けて、喜びの氏子が地上に満ち溢れる事になる。それが天地金乃神様の願いだと。天地に満るみ恵みがということをです、だから先ずは分からなければならないということですよね。
 だから天地に満る御恵みが本当に分らして頂いたらです、もう絶対子々孫々に信心が続く。子孫も続き身代もでき、一年勝り代勝りのおかげが受けられる。だからどうでもこうでも分からなければいけないということになりますよね。これはね例えば活字にしたりお話にしたりして聞きますと、うん成程やっぱりお恵みだなぁと、目には見えないけれども、第一この空気そのものが神様のお恵みだなあと。
 使わせて頂いとる紙一枚でも、米粒一粒でも頂く物に対して、神恩報謝の心が起こって来なければいけないなぁと、いうことは分かるけれども起こらない。一すくいの水でも押し頂く心が生まれてこない。分かっちゃおれどもということになります。だから本当に分かっていないということになります。本当に分かったらね一切のものに御礼が言えれる。そういう御礼の言えれる人達が地上に満ち溢れた時にです、地球上は歓天喜地ということになりましょう。
 喜びのね満ち溢れた地上ということになりましょう。金光大神御出現の元はそれなんです。世の中に難儀な氏子が沢山ある。その難儀な氏子を救わんとて、教祖金光大神様がこの世に御出現になったんだ。天地金乃神様もそれこそ、お前の様な氏子はまぁだ見た事はないと、神からも氏子からも双方からの恩人と。又は天地金乃神と同根とまで教祖を讃えられた。そして自分の思いを吐露された。そして取次助けてやってくれという、頼みの事になってきた訳です。
 そこで教祖金光大神様が分かられて、又は行じられて、そこになるほど合点のいくおかげをね、世に試しなきみかげを受け賜いてであります。そのみ恵みを受けられてです、この様にして御理解を下さってあるのです。分かっておるとか知っておるというのとは違うんですね。ここで神のおげを知らぬから互い違いになる。又は神の大恩を知れば無事達者でね、それが子孫にまでも続くのだと、しかも年勝り代勝りのおかげが受けられるんだと言う様な、おかげを頂かせて頂くということは。
 その大恩を知っておかげを、又は知ってどの様な風にそれが現されて来るかということでございます。だからもうここんところを分かろうと精進することが、お道の信心を分かろうとする事だというてもいい訳ですね。昨日下がらせて頂いて、繁雄さんの奉仕を受けて繁雄さんが帰られたすぐその後に、本郷の教会の御信者さんと、それからあれは何処だったね、あれは宮野の教会の二人共壮年の方が、是非先生にお会いしたいといよんなさるから、いま丁度あちらで一服しとんなさる時間ですからと言ったそうですけども。
 是非先生でなからないかんと言われるから、それから又私紋付袴を付けてここへ出て来ました。そしてそのどういうお願いですかと申しましたら、実は合楽のね、そのうこういう御ひれいを頂いておられる根本、そのいよいよ合楽の信心の真髄をお話を頂きたいと言われる訳で、それは大変な事ですけどもね。簡単にお話しましょうねと言うて、それでも三十分位お話しましたでしょう。もう本当に甘木におかげを頂いて、甘木関係におかげを頂いて、甘木の親先生の信心が初めて分かったというて帰られました。
 何十年信心させて頂いとるけれどもね、やっぱその日も甘木で甘木地区の何かがあったんでしょう。甘木の教会でその二人がお会いされた訳です。それでその一辺どうでんこうでん、二人で合楽に参ってみろうということだったらしいんです。本当に皆さんでもそうです。合楽に御縁を頂きながら合楽の親先生の信心を、とうとう分からんなり終えたと、いう様な事にならんとも限らん訳です。知るとかね、分かるとかじゃなくて頂くという事なんです。
 それで私は甘木の初代の、一切を神様の御物として頂き抜かれた話をさして頂きました。それは枯葉木の枝一本でも神様の御物だとして大切になさり、そして弟子達にもそれを徹底して教えられた。甘木に御縁を頂いておってあまりにも迂かつな、それこそもう反古紙一枚、勿論タオルひとつ絞るそこにも心を込められた。下駄を履かれて歩かれる、歩かれたら必ず何町か行ったら、こう右と左の下駄を履き変えられた。誰でも足癖があってこう斜めになったりしますからね。
 電車なんかを使われてです、例えてまぁ申しますなら、まぁ本郷とまぁ甘木という電車の停留所がありますね、それが丁度そのまん中辺に用件が例えばあると致します。少しは例えば遠かっても、手前の駅で降りられたということです。とにかく親先生はもう風呂の加減を非常にやかましく言われた。自分が入るのはこの位のと何時もそれを弟子達に言うておられるけれども、ぬるかったり熱かったり。特に熱すぎる時なんかは、その沸かした弟子を呼びつけて教えられたということです。
 勿体ない沸かし過ぎたら、まぁ例によってそういう沸き過ぎておった。そこでその弟子を究明された。そしたらその弟子が言う事が、先生今日はあの石炭も薪も使いませんでした。今日はお庭に散らかっとるその枯葉やら枯れ枝ばっかり集めて沸かしました。まぁとくとくとして言うた訳です。そしたら先生が更にその言葉をw激しゅう言われた。枯れ葉一枚枯れ枝一本だって天地の親神様のね、御物でないものはないぞと言われたち。弟子が感動したんですねえ。
 金がかかっとらんからね、ただ拾うちきたつだから、んなら拾うて来たのでも神様のお恵みのこもらんものが、枯葉枯れ枝一枚でもあるか、ちね。それこそ神様のおかげを知り神の大恩を知っておられるからこそ、それだけ徹底された。だからあの様な大徳を受けられたんだ。あなた方甘木にご縁を頂いておられるから、その事をよう知っとられるでしょう。もうえらいそれを聞いて感動されるんです。もう知っとったどこじゃない、もう何度も聞いた話。
 けれども本当に心に感じたのは、今日が初めてと言わんばかりに、二人が感動されました。私達が一番欠けておったのはこれだったと、まぁ感じられたんでしょう。だから親先生の周囲には、一切が天地のお恵みに、満ち溢れておったということです。それを親先生の心で受け止められるから、何時も何を見ても何を聞いても、御礼の対照にならないものはひとつもなかった。そこにあの大徳を受けられあれだけ、沢山な人が助かったんだということです。
 お互いが知っちゃおれども、あまりにも知っとるけれども、知っておらんと同じ様な事になっておるのです。そこで理屈は同じ事だけれどもね、私の場合は合楽の場合は、全ての事柄を私は御の字を付けて頂く事にし、又それをここでは徹底教えております。それを成り行きを大事にするとか、尊ぶとかね、全ての事柄を御事柄として頂いておる。天地の親神様が氏子を救い助け賜わんとしての、お恵みというのは、只ここに露出しておるところのね、おかげだけ目に見えるところのおかげだけがお恵みではない。
 お恵みはその目に見えない方がむしろ多い位だ。信心はその目に見えない所、今迄はおかげとも思えなかった事を、おかげと分かる事なんだ。今迄は難儀と思うておったが、それが天地の親神様のお恵みだと分かる事なんだ。天地の親神様が一人一人の氏子におかげを、それこそ下さろうとする働きが、様々な問題になって現れて来る。如何に天地の親神様を信心しとりますというてもね、如何に神棚を麗々しゅう奉斎し、お祀りし拝んでおっても、神様の働きそのものを、お粗末にする様な事ではおかげを受けられんのです。
 真の信心ということを言われるが、真の信心には絶対真のおかげが伴うのです。真の信心には真のおかげが絶対伴う。伴わないなら自分が真を欠いておる時である。そんならその真の信心とは一切の物を、御物として頂く生き方であり、一切の事柄を御事柄として頂き抜く事なんだ。甘木が御物を説かれたら合楽は御事柄を説いておるのです。例えば貴方方がちょうど中途半端な時間に見えられて、今あぁた方が出口で合われたあの方が、ここの久富さんという総代さんですが。
 朝の御祈念に必ず御祈念の後、お初穂の整理を終わったらお食事を済ます、そしてちょうど今の時間まで足を揉んで頂いて、私が足が大変悪いからこれは、毎日の御用をして帰られます。いうなら私のやれやれ一服という時にです、しゃっち私でなからにゃならんと言わっしゃる人が見えとるというので、せからしかね何処の人じゃろうかとは私はさらさら思わなかった。それこそ御事柄と思うから紋付袴付けて、私しゃここへ出てきたんだと、でなかったらこっち来て下さいね。
 私の居間でお会いしましょうというてもよかったけれどもね、お粗末にしちゃならんと思うから私は紋付袴を付けて、いうなら貴方方二人の為に出て来たんですよ。だから迷惑もなんも感じません。御事柄ですから有り難いと思うて実は出て来たんですよと。ほんとうどうも済みません、いやすまんどこじゃない、私の方が御礼いいたいくらいだ。問題はそういう生き方なんだよ。
 そういう生き方を身につける事なんだよというて、まぁ皆さんなら今の話はですもうそれこそ、合楽に御縁を頂くならどれ程繰り返し繰り返し、頂かれたか分からんのですけども、頂いておっても真のおかげが現れておらんとするならばです、如何に天地に満るみ恵みをというて声高らかに、いわば唱えたところでです、その天地に満るそのお恵みを、私が分からして貰うて、そのお恵みに対するところの喜びの心というものが、分からなければ値打はないのですよとね。
 その為には私共が本気で御物としての頂き方、それこそ親先生、甘木の親先生がです、一円の金を自分が使う時には、それこそ百円の金を使うような思いでと言われる。自分の金を百円使う時にはそれこそ、ざぁっと思うて使うでしょう。そして神様にさあ百円か千円お供えする時にはねえ、惜しげこそないかも知らんけれども、本当にしみったれたお供えしかでけんでしょう。
 そんな事ではだからおかげは受けられんというのです。お粗末御無礼、もうそれこそ食物がお粗末になっとる。いうなら事柄においては尚更のこと粗漏な事である。そこからおかげがみんな漏っとる。甘木の親先生は御物ということを徹底された。それは天地の大恩が分かれば分かるほど、だから親先生の場合はね、そういう徹底をなさるに従って、天地の大恩がいよいよ分かっておいでられたという感じですね。
 初めから分かってじゃない、只天地の大恩ということを聞かれて、特に大地の大恩を聞かれて、大地から抜き出て来るとところの、いうならばお野菜とか一切の、そういう食物なんかもです。本当にはぁそうだと分かっただけじゃなく、それを押し頂かれる稽古をなさっていかれる内にです、確かにそこから生まれて来る次の感動というものが、いうならいよいよおかげをおかげと分かり、大恩を大恩として分かっていかれたという風に思います。私自身もそうです。
 私は甘木の親先生の様に徹底としては、なかなか頂けとらんと思うですけれどもです、いや頂けておりませんです。けれどもこれを徹底していよいよ御事柄として、受け抜かせて頂いて居る稽古をさせて頂くに従ってです、成程御事柄だなあという実感が湧いて参りますから、例えばそういう小さい事柄でも、粗末にでけないということになって来る。もういよいよ御の字を付けなければおられないということになるのです。
 だからね、行じなければ実際身をもって心をもって分かる事は出来ないということ。頭で分かっただけじゃでけん。御事柄と頂いたらそのひとつの事をです。小さい事柄でもです。御事柄として受ける稽古を、繰り返し繰り返しさせて頂いとる内にです、はぁやっぱり御事柄だった、どういう御事柄だったかというと、私に力を下さろうとする御事柄であった、私にこう言うおかげを下さろうとする御事柄であった、ということになるのです。だからやはり行じなければ、この神のおかげも本当には分からん。
 行じなければ神の大恩も本当には分からない。そうした分かった人達が地上に満ち溢れてくる。天地に満るところのみ恵み、これは絶対のものなんだから、それを受けて行ずる者の上にです、神様の喜びが返って来る。その喜びが歓喜となってくる。歓天喜地、天の歓び地の喜び、そういう理想世界を私共が目指させて頂く、それを合楽では和賀心時代をといっておる訳です。
 光の輪を、いよいよ広げて行こうともいっておるのです。それを合楽示現活動に参画させて頂いてともいっておる訳です。為には私の心の中に、喜びが湧かなければなりません。それには私共が本気で御事柄、御物ということを、徹底して頂く信行からしか本当の、いわゆる今日最後に申しております、子孫も続き身代もでけ。一年勝り代勝りのおかげが受けられる。
 一番初めに言っておられる人間と身代と達者が、三代続いたら神の気感に叶うと仰るが、だから神の気感に叶うということは、もうここのところのおかげや大恩が分かったら、絶対に続く事なんです。だから子々孫々に有り難いおかげを頂き続けていくことがでける。一年勝り代勝りのおかげを受ける事がでける為にも、いよいよ神のおかげを分かり神の大恩を分かり為には、んなら御事柄、御物としての頂き方の徹底に依るのだということになります。
   どうぞ。